鍋島直正は文化十一年十二月七日江戸桜田藩邸に於いて出生。幼名貞丸・成人して斉正、維新後直正と改名、号は閑叟。
天保元年、弱冠十七才で襲封藩主となりました。当時佐賀藩は長崎警備の大任を受持ち財政は極度に窮乏していました。このため直正公は補導役の古賀穀堂の意見を取り入れ、徹底した倹約令を施行、自らもその範を示し、一汁一菜を励行すると同時に、一切の衣服を綿服に改めました。また遊郭を閉鎖し、歌舞音曲の観覧を禁止するなど、華美遊堕に流れることを抑えました。
しかし、直正公は単なる堅物ではありませんでした。風光に富む神野に茶屋を作り、市中近郷の男女に花見をさせるなど庶民に開放しました。
幕府は鎖国中、日本の中でただ長崎一港のみ中国とオランダとの交易を許していました。警備を佐賀福岡両藩が一年交代で受け持たされていましたが、文化五年八月、「フェートン号事件」が起こります。オランダの旗を掲げ、長崎港へ入ってきた船はイギリスの軍艦でした。艦は食糧品をはじめ薪・水を求め又暴虐の限りを尽くしました。時の警備は佐賀藩であった為、長崎奉行は切腹、藩主斉直(九代)は逼塞を命ぜられる等厳しい裁断を下されました。これを機に長崎警備は強化され、やがて事件から六年後に生まれた直正は、「国防」の重要性を感じると共に開港を迫ってくる欧米諸国が近海を遊弋する状況に日本の文明の遅れを中国、オランダを通じ、痛切に感じていました。その後、藩政が整い豊になって来た財を、国防・文化・文明・科学・化学・医学等に力をそそぐ事になりました。当時の佐賀藩の文明開化と先進技術は日本一ともいわれました。
明治四年正月十八日(新歴三月八日)直正公は五十八歳で逝去。同二十三日付で、少辨五辻安仲を勅使として「天皇御璽」をもって贈正二位の宣下と位記が、東京永田町の私邸に達せられました。

御事蹟

弘道館拡張、致遠館設立、好生館創設(現在の佐賀県医療センター好生館)、牛痘種痘に貢献、反射炉設置、大砲製造、蒸気船建造、初代開拓長官、新政府への経済援助

第十一代佐賀藩主鍋島直大は弘化三年八月二十七日に佐賀にて出生されました。父・直正の正室・盛姫(十一代将軍徳川家斉の十八女)には子はなく、実母は側室・濱(瀧村/姉川鍋島家の出)。幼名は淳一郎、後に直縄、茂実、1868年より直大。後の外交官で洋画家の百武兼行は淳一郎の四つ上のお相手役でした。
 直大公は「とつ国の開けしわざを敷島の大和心にそえて学ばん」と詠み、父君閑叟公の御意志を継ぎました。その後は科学の研究を充実、殖産興業の発展につとめられ、特に伊万里の山代、長崎港外高島に於いてわが国最初の石炭採掘をされ、今日の工業、産業発展の原動力を築かれました。
 また慶応四年フランスパリの万国博覧会に佐賀藩内産物、有田焼、嬉野茶など多種類を出品「大日本肥前国」の名を外国に広められました。この時参加したのは佐賀藩のほか、幕府と薩摩藩だけでした。
 明治十三年にはイタリア国在勤特命全権公使として、イタリアとの親善に尽くされました。
 その後、元老院議官兼式部頭、明治十七年には侯爵を授けられました。つづいて、式部長官、貴族院議員、宮中顧問官を歴任されました。このほか日本音楽会、伊学協会の会長、皇典講究所國學院の院長なども務めました。
 大正二年には佐賀市松原町に私立佐賀図書館を設立されました。現在は佐賀県に移管され、県立図書館の前身となりました。
大正十年六月十八日病のため七十六歳で逝去。特旨を以て従一位旭日桐花大綬章を賜りました。