御祭神について

御祭神
 贈従一位 
 旧佐嘉藩第十代藩主 鍋島直正命

                                   
従一位
 旧佐嘉藩第十一代藩主 鍋島直大命

                                    
<<<直正公の御事蹟

  佐嘉神社
庶民の神
神野の茶屋を庶民に開放
佐賀36万石の10代藩主鍋島直正公は、文化11年(1814)江戸桜田藩邸にお生まれになり、幼名を貞丸、成人して斎正、維新後に直正と改名、閑叟(かんそう)と号しました。
天保元年(1830)2月、若冠17歳で父君斎直公の跡をうけて藩主となりました。
その頃の佐賀藩は長崎警備の大任を受持ち、財政は極度に窮乏していました。このため、直正公は補導役の古賀穀堂の意見をいれ、徹底した倹約令を施行、自らもその範を示し、一汁一菜を励行すると同時に、一切の衣服を綿服に改めました。また、遊郭を閉鎖し、歌舞音曲の観覧を禁止するなど、華美遊惰に流れることを押さえました。しかし、直正公は単なる堅物の殿さまではありませんでした。従来あった10数ヶ所の別荘を整理して、風光に富む神野(こうの)に茶屋をつくり、市中近郷の男女に花見をさせるなど庶民に開放しました。
直正公の詩に
     紫藤三面巧囲屋 (紫藤三面巧みに屋を囲み)
     新竹千竿斜護門 (新竹千竿斜めに門を護る)
     看花好与民偕楽 (花を看るに好し民と偕に楽しむ)
     酌酒便唯我独尊 (酒を酌めば便ち唯我独尊たり)
というのがありますが、この「花を看るに好し民と偕に楽しむ」の一節は、民を愛する気持ちをよくあらわしており、「庶民の神」として敬愛されています。
直正公の孫に当たる直映公は、直正公の意を体して、大正12年、神野の茶屋を佐賀市に寄付し、現在、神野公園として、佐賀市民に親しまれています。
                             
                        現在の神野公園内に建つ「隔林亭」
救農の神
農地改革による農民の救済
直正公は質素倹約をすすめる一方、貧農救済と藩財政の建てなおしのため、天保13年から20ヶ年にわたって加地子(小作農)納入延期令をだし、さらにこれを徹底させるため不在地主の農地を没収して、小作人に再分配するいわゆる均田制度を実施しました。
また、同時に富商の利殖抑制のため、1割2分以上の利息を禁じて、小農の保護につとめました。「救農の神」といわれる由来はこのことによるものです。
学問の神
新しい学問の普及
直正公は教育の刷新、人材の養成に力を注ぎました。
文化5年(1808)英国の軍艦フェ-トン号が突然長崎港に侵入する大事件が起こって以来、外国船がたびたび長崎に来航するめまぐるしい情勢の中にあって、国家的な人材を養成する必要を痛感した公は、藩校である弘道館の費用を175石から1千石に増加し、ここで全藩士の子弟を25歳まで徹底して教育させました。他藩では学問の保守、革新の対立がありましたが、佐賀藩では藩主自ら新しい学問の先頭に立ち、実に幅広い勉強を思い切りさせました。
幕末、諸藩では蘭学をとり入れたところがありましたが、直正公はさらにアメリカ人宣教師フルベッキを招き、長崎に「致遠館」という英学校をつくって英学を学ばせました。
また、医学校と病院「好生館」(のちの佐賀県立病院好生館)を設立し、町医、郷医にいたるまで、蘭法医学を修行させました。特に種痘については、直正公の長子直大公にすすんで行い、全国にさきがけて普及させたことはよく知られています。
このようなことから、「学問、教育は佐賀が第一」ということになり、時の右大臣岩倉具視公は、直正公に養子具綱、実子具定、具経、具儀四人の教育を頼み、京都からわざわざ佐賀の弘道館に学ばせました。
このような直正公の先進的な気風と勉学する環境の中から、明治維新に貢献した有為な人材が輩出されたのです。直正公を「学問の神」として崇める由縁は、ここにあります。 
              種痘の図
           
            弘道館跡地に建つ石碑 
                     
        県立病院「好生館」の庭園にある 種痘のブロンズ
                   
産業開発の神
画期的な産業開発
直正公は弘化2年(1845)、国産方を設け、肥前国内の産業開発や領外貿易などの殖産興業政策を次々に推しすすめました。
石炭開発などは「商人のすることで、藩名を辱しむる」という重臣の意見を退け、英国のグラバー社と提携して、高島(長崎県)に、日本最初の蒸気機関を用いた堅坑を開発、また、英国鉱山技師モーリスを伊万里に招き、炭田調査を行うなど炭鉱近代化の先駆をなした人でした。
伝統産業の陶器についても、従来の経験主義だけに頼らず、科学的に研究できるようドイツの科学者ワグネルを招いて、陶業技術の近代化に着手しました。
こうした施策によって藩財政をたてなおしたばかりでなく、佐賀城北の築地、中折に日本最初の洋式反射炉を構築して、大砲を鋳造、また、蘭、英から軍艦を購入すると同時に、中折に陸軍調練場、化学実験場の精煉方を設立するなど、長崎防衛の義務を果たすため、防衛産業に力を注ぎ、諸藩のうち最も強力な軍事力をつくりあげました。
このような御事跡から「産業開発の神」として崇敬されています。
                                   
科学技術研究所「精錬方」 我が国初の洋式反射炉
交通文化の神
交通・通信の先駆者
日本に汽車が正式に走ったのは、明治5年10月14日「汽笛一声新橋を・・・・・」という鉄道唱歌で知られるように、東京の新橋と横浜の間29キロが最初です。しかし、日本に汽車というものがどんなものであるか具体的に知らせてくれたのは、安政元年(1854)黒船でやってきたペリー提督が汽車の模型を幕府に献上し、横浜で走らせたことにはじまります。
佐賀藩ではこの年、すでに電信機を完成、これを薩摩の島津斎彬公などに贈っていますが、直正公は精煉方で、実際に動く汽車と汽船の模型をつくらせていました。実験に成功したのはペリー提督の汽車模型より遅れることわずか1年、安政2年8月7日のことでした。なお、この日の後日談として、試運転を見学にきていた弘道館の学生、のちの大隈重信は、この日の感激を胸に秘め、日本鉄道建設に力を注いだことは有名な話です。
その後日本最初の蒸気船「凌風丸」が、佐賀郡川副町早津江の造船所でつくられたのは慶応元年(1865)のことでした。このほか明治維新前後の日本海軍の主力が佐賀藩の艦船であったところから、直正公は交通機関の先駆者として「交通の神」と称えられています。
         
   日本初の蒸気船「凌風丸」          電話の先駆け「電信機」
                                             
開拓の神
新政府の重鎮
幕末、大きな勢力をもっていた直正公は、文久3年(1863)、公武合体周旋の命を朝廷から受けると、京都・江戸に上り、慶応3年(1867)長州処分、兵庫開港問題と取り組み、明治2年には薩長土の3藩とともに版籍奉還を行い、新政府の議定となりました。その後、軍防事務局補、制度事務局補を兼任したが、同時に藩の実力をバックに江藤新平、大隈重信、大木喬任、副島種臣らの小扶藩士を新政府に送りこみました。
      大隈重信 (総理大臣、早稲田大学創立者)
      江藤新平 (司法卿参議)
      佐野常民 (大蔵卿、農商務大臣、日本赤十字社創立者)
      大木喬任 (司法相、文相)
      島 義勇 (明治天皇侍従、判官)
      副島種臣 (参議外務大臣)
                                          
                                  
      境内に建立されている「佐賀七賢人の碑」
直正公はこのあと上局議長、蝦夷地開拓督務(のちの開拓使長官)となり、北海道開拓に力を注ぎました。公は不幸にして病になったので、その意志は藩士の島義勇が開拓判官となって受け継ぎ、今日の札幌市街建設などに当ったことが知られています。直正公は北海道旭川市の上川神社と札幌市円山公園にある開拓神社には「開拓の神」として祀られています。島義勇を顕彰する銅像は札幌市役所と北海道神宮に建てられています。
                   
                  北海道神宮境内に鎮座する「開拓神社」
                              
                                  
新政府への経済援助
明治4年(1871)廃藩置県に伴い現金71万両(住友銀行佐賀支店昭和50年現在換算6000億円)並びに軍艦「電流丸」をはじめ12隻を政府に献納されました。時は明治になりはしたものの経済的基礎の固まらない当時の政府は佐賀藩の献納によって安定を見、近代国家へとすべり出したもので、まことに貴重な経済援助でありました。
明治天皇と直正公
                                  
      明治天皇              
明治4年、直正公は危篤の病床から、天皇陛下が未だ種痘を終えていらっしゃらないことを憂い、1日も早く接種なされることをお願いされたのであります。明治天皇は岩倉右大臣よりこのことをお聞きになり、30歳のとき接種されたということです。明治4年1月18日(陽暦3月8日)直正公は東京永田町で薨去されました。宮中においては同月23日、五辻侍従を差遣わされ、弔辞を賜ったのでありますが、その文中に「国家の柱石、臣庶の儀型」とあり、公の御事蹟が何一つとりましても国家的な鴻業であったと知る事が出来ます。昭和8年、佐嘉神社御造営の折り、直正公に「別格官幣社」の称号を賜ったのでありました。
                            
                  賜りし勅語「忠君之碑」
<<<直大公の御事蹟
留学生の花形
直大公は明治4年10月12日、岩倉欧米視察団がアメリカ号で横浜を出港した折、その中の一行、留学生59名の1人として、随員百武兼行、田中英昌、松村文亮などと乗り込みました。
直大公は留学に際し、それまでの結髪を断髪にし
 「とつ国の開けしわざを敷島の大和心にそえて学ばん」
と詠んで、父直正公の遺志を継ぐことを示しました。
久米邦武著『鍋島直正公伝』には、この留学について次のように記しています。
 「蓋し版籍処分後、子孫に相応家禄の給与あるべき事は暁知られたりと雖も、時勢は文明の進むに従うて知能の競争となり、優勝劣敗は機械の如く急激なるべきに、只先祖の遺せる封の一分たる給禄を恃むのみにては、家声を永続せしめんと欲す  とも得べからず。されば世界の知識を開拓し置くは、之に応ずべき最善の計なりとて洋行の議を定めた」とあります。
封建制度が崩壊するさなかにあって、わが子、わが家系、佐賀藩民の将来を案ずる気持ちもさりながら、ここには時代の推移と西洋を知的な展望でとらえようとした直正公の慧眼が、みごとに息づいています。しかも、直大公が留学先で学んだものは、主に文学でした。
ここに鍋島家の開明度、文化認識を知ることができます。なぜなら近代制度も技術も、その根底にあるのは人間であり、広い意味での文明を把握するには、その核心へ向かって目を開かねば、表層をすべることになってしまう。
直大公の留学についていえば、日本全体が明治を迎えて、他藩出身者は軍事や医術を中心とした技術分野の吸収に血まなこになっていました。
しかし、直正公の目は、技術を超えて西洋の最も奥深い知的発見に見据えられていたのです。西洋で最も優れた武器「アームストロング砲」。その大砲を幕末の佐賀藩ではすでに自作できるまでの技術を持っておりました。
直大公はロンドンの医師ブルース家に身を寄せ、英語の勉強のほか、パリ、ウィーンにも旅行、シーボルトなどにも会い、国際的感覚を養い、近代社会における学究として成長していきました。
オックスフォード大学での文学研究は、夏目漱石のロンドン留学が明治30年代であり、ドイツ留学の森鴎外などより10数年前のことであり、それがいかに早いものであったかがわかります。
隋行した百武兼行は、ヨーロッパ絵画のアカデミズムを体得し、日本近代洋画史のなかで独自の足跡を印しました。
ロンドンでの直大公は米国大統領グラントらとともに、ビクトリア女王の舞踏会にも招待を受け、明治11年7月の帰国まで、留学生というより、社交界の花形になりました。また、その間佐賀からの多くの留学生の面倒をみたことはいうまでもありません。
                
       アームストロング砲(砲身内に刻まれた螺旋が見え、技術の高さが伺える)                      
外交畑と文化界活躍
直大公の略歴を記すと、明治2年2月、外国事務局輔加勢より同局権輔、3月、横浜裁判所副総督に就任。つづいて総野鎮撫を命ぜられ、藩兵を出して幕兵を討伐しました。6月、外国官副知事に任じられ、対スペイン条約全権委員となり、8月、左近衛少将、9月参与、同4年7月廃藩、11月イギリス留学、在留前後8年におよぶ。同12年8月、外務省御用掛、同13年、特命全権イタリー公使。ローマに在任中、鋼銅の合金法を研究させ、わが国の工業の発展と日本、イタリーの親善に尽くされた。同15年帰朝、元老院議官兼式部頭、同17年侯爵を授けられ、式部長官就任。23年貴族院議員、同30年、宮中顧問官など歴任されました。
このほか日本音楽会、伊学協会の会長、皇典講究所國學院の院長なども勤めました。
            
                
渋谷の丘に建つ國學院大學(皇典講究所) 創立125年を迎え若木タワーとして新築された                                   
慶応3年(1867)フランスはパリーの万国大博覧会に佐賀藩内産物、有田焼、嬉野茶等多種類を出品され「大日本肥前国」の名を外国に広められました。この時に参加したのは佐賀藩の外、幕府と薩摩藩だけでありました。
なお、特筆されることは、大正2年、佐賀市松原町に直大公が私立佐賀図書館を設立されました。この図書館は昭和4年、佐賀県に移管され、今日の県立図書館の前身となったものです。直大公は同郷子弟のための奨学制度佐賀育英会をつくり、その総裁をつとめ、いつも県民の文化向上のことについて関心をもたれ、当時第一流の文化人であったといわれたお方でした。
大正10年6月18日、病のため76歳で薨去、特旨を以て従一位旭日桐花大綬賞を賜れました