交通のご案内


●佐賀大和I.Cより車で約20分   ●佐賀駅バスセンターよりバスで約10分
●佐賀駅よりタクシーで約7分         (佐嘉神社前バス停:降車)
●佐賀駅より徒歩で約20分     ●佐賀空港よりバスで約20分
                       (佐賀空港より県庁方面)

祭典・イベント案内

1月
・1月元日
 開 運「鰤 座」     午前0時、午前11時、午後1時30分
12月31日に斎行される開運「鰤祭」に奉納された大きな鰤を使いお雑煮を作ります。
そして1月1日午前0時の一番祈願に御参列いただき、お座に就いていただきます。
席上にて「鰤祭」で用いた神矢が当たる神くじが行われます。
新年のめでたい席として大好評です。   要予約 御座(一席一名)3000円



・1月2日
  初日供祭
         午前9時30分  佐嘉神社・松原神社
毎朝行われる神様へのお食事をお供えするお祭りである御日供祭の新年最初のお祭です。
  大草流庖丁式       午前11時    松原神社
庖丁道「大草流」による魚を素手で触れずに包丁のみで刺身に調理する妙技が神前に奉納されます。
・1月15日
  お火たき神事
      午前10時30分     佐嘉神社
昨年1年間御護り頂いた御神符・御守札を焼納するお祭りです。
※御神符・御守札・破魔矢・熊手以外はおあずかりできません。(注連縄、門松など)

・1月1日~1月31日
  佐嘉神社・松原神社新春奉納書道展      松原神社境内
 作品募集:11月中  対象:幼児~中学3年生まで
 表彰式:1月中旬頃

※詳しくは
佐賀県書道教育連盟発行の
『大空』11月号を
ご覧いただくか、
書道展事務局
(0952-24-9195)まで
ご連絡下さい。
2月
・2月3日
  節分祭 豆まき神事    佐嘉神社 
祭典後 特設舞台にて豆まき神事

節分祭 豆まき神事 
雨天決行
神事豆まき
11時、14時、16時の
3回豆まきを行います。
この福豆には
豪華景品の当たる
福くじが入っています。
※景品の交換は
2/3 17時まで
その後は受け付けません
  豆まき奉仕者募集中!
年男・女・厄年など豆まきをされたい方募集中。
裃を着けて頂き、御本殿での開運厄除の祈願の後、特設舞台で福豆まきを行います。
裃は服の上からの着用となります。お気軽にお越し下さい。
  初穂料6千円  お申込みの豆まき時間30分前までにはお越し下さい。
 (お祓い、節分おふだ、福豆、裃貸出付―着替えは神社でお手伝い致します。)
お申し込みは電話にてご希望の時間、お名前、連絡先をお伝え下さい。
佐嘉神社 節分祭係(0952-24-9195)までご連絡下さい。

・2月初午日
  松原稲荷神社 初午大祭
 午前11時
毎年、初午大祭は2月初午の日です。

※ぜんざい振る舞いは
祭典終了後~なくなり次第
お正月にお供えされた
お餅と小豆で
温かいぜんざいを
振る舞います。
(限定300杯)
・2月17日
  祈 年 祭
        午前10時  佐嘉神社・松原神社
「としごいのまつり」と云い、この年の五穀豊穣、産業の繁栄を祈念するお祭です。
・2月最終金曜日~3月3日
  盆 栽 展

日本盆栽協会佐賀支部による盆栽展です。
 ※日程は変更されることがあります。
・2月23日
  天 長 祭
        午前10時  佐嘉神社・松原神社
天皇陛下のお誕生日である2月23日に行われるお祭りで、奉祝の意を表すと共に、陛下の長寿と益々のご健康を祈るお祭りです。(神社本庁より
3月
・3月3日
  ひな祭り 流し雛神事
   午後3時  松原神社境内藤棚
女児の健やかな成長を祈るお祭りです。人形(ひとがた)に罪穢れを移し、願い事を祈念して川に流す神事を行います。


・3月8日
  頌徳祭(鍋島直正命)
   午前10時 佐嘉神社
佐嘉神社ご祭神である鍋島直正命のご命日にあたり、ご事蹟を称え、日々のご神徳に感謝申し上げるお祭りです。
4月
・4月10日~4月12日
  佐嘉神社・松原神社 春祭り「日峯さん」

「日峯さん」は松原神社の愛称で、春、秋に行われる佐嘉神社・松原神社のお祭りの代名詞になっています。厳粛な祭典に加え、皆様に御奉納頂いたのぼりが境内にたなびく中、特設お祭りステージでは様々な芸能が奉納され、盛りだくさんの催しが行われます。
毎日午後7時からはお祭りステージ、松原川にて行われる花火ナイアガラは圧巻。
さらにダブルチャンスくじ引き大会や餅撒きなども行われます。

※お祭りステージ出演者募集中!
・4月29日
  昭 和 祭
        午前10時 佐嘉神社・松原神社
昭和天皇が御誕生されたこの日にその御聖徳を称え、皇室の弥栄、国の繁栄を祈念するお祭りです。
5月
・5月3日、4日
  松原恵比須社御鎮座記念祭  とんさんえびす祭り

松原恵比須神社は平成17年5月4日に鎮座建立致しました。以来この日を「御鎮座記念大祭」として祭典を斎行し佐賀の街に点在する数多くの恵比須神と共に市民の安寧と郷土の発展を祈願いたします。


・5月4日
  頌徳祭(龍造寺隆信命)
  午前10時  松原神社
松原神社ご祭神である龍造寺隆信命のご命日にあたり、ご事蹟を称え、日々のご神徳に感謝を申し上げるお祭りです。
・5月7日
  頌徳祭(鍋島勝茂命)
   午前10時  松原神社
松原神社ご祭神である鍋島勝茂命のご命日にあたり、ご事蹟を称え、日々のご神徳に感謝を申し上げるお祭りです。
6月
・6月18日
  頌徳祭(鍋島直大命)
     午前10時  佐嘉神社
佐嘉神社ご祭神である鍋島直大命のご命日にあたり、ご事蹟を称え、日々のご神徳に感謝を申し上げるお祭りです。
・6月25日
  河童社例祭 
         午前11時  松原河童社
平成22年9月に水神三神を祀り、松原神社も伝わる凡そ240年前の奉納とされる河童の木像「兵主部」(ひょうすべ)を奉安し松原河童社の例祭として「河童祭」を行います。社殿内には神前幟が奉納され、家内安全・子護り成就を祈念いたします。


・6月30日
水無月大祓式 夏越祭 茅の輪くぐり神事
 午後4時 佐嘉神社境内
1年に2度斎行される神事で、人々が半年の間に知らず知らずに犯している罪・穢れを祓い、元の清らかな心身に返り、水無月であれば祖霊の祀り(お盆)を恙なく勤め、後の半年を無事に過ごそうという神事になります。自らの罪穢れを身代わりである人形に託し、茅で作られた輪っかをくぐり、無病息災、悪霊退散と夏を無事に乗り切るよう祈念いたします。
7月
・7月24日
  頌徳祭(鍋島直茂命)
       午前10時  松原神社
松原神社ご祭神である鍋島直茂命のご命日にあたり、ご事蹟を称え、日々のご神徳に感謝を申し上げるお祭りです。
8月
・8月第一土曜日
  七夕祭 七夕星祈願祭 
     午後7時  佐嘉神社境内特設舞台
佐嘉神社境内に於いて技芸上達などの願い事が書かれた短冊を供え、祈願祭を斎行します。神前ではゲストによるコンサートや雅楽・神楽の奉奏も行われます。


9月
・9月9日
  重陽の節句 菊祭り
        午前11時  佐嘉神社
邪気を払い長寿の妙薬という故事にならい、開運長寿のお祭りを斎行します。
当社では「菊被綿」の再現や菊酒をお頒ちしております。


・9月28日
  列格記念日祭
         午前10時  佐嘉神社
昭和8年に「別格官幣社」に列されたことを記念するお祭りです。
10月
・10月10~10月12日
  佐嘉・松原神社 秋祭り「日峯さん」

「日峯さん」は松原神社の愛称で、春、秋に行われる佐嘉神社・松原神社のお祭りの代名詞になっています。厳粛な祭典に加え、皆様に御奉納頂いたのぼりが境内にたなびく中、特設お祭りステージでは様々な芸能が奉納され、盛りだくさんの催しが行われます。
毎日午後7時からはお祭りステージ、松原川にて行われる花火ナイアガラは圧巻。
さらにダブルチャンスくじ引き大会や餅撒きなども行われます。

また、11日は午後6時より「神輿」を神幸いたします。
この「みこし」の担ぎ手を広く募集しております。
当日まで受付致しますので
どうぞご参加ください。


※お祭りステージ出演者募集中!

11月
・11月3日
  明 治 祭
   午前10時  佐嘉神社
日本を近代国家へと導かれた明治天皇の御聖徳を仰いで、皇室の弥栄と国民の安寧・国家の繁栄を祈り、文化・産業の更なる発展と平和を願うお祭りです。
・11月3日前後の土曜もしくは日曜
  佐嘉神社旗争奪 少年剣道大会
青少年の健全育成を目的に行われる剣道大会
例年300名以上の少年剣士が参加しています。
・11月1日~11月15日頃
  佐賀県菊花展

佐賀県菊花愛好会の方々により丹精こめて作られた菊花が七五三詣で賑わう佐嘉神社境内に所狭しと展示され、見事な容姿とさわやかな菊花の香りが、境内いっぱいに広がります。
県内唯一の内閣総理大臣賞を賜る伝統ある菊花展です。


・11月15日
  七五三まつり

三歳を迎えた男女児、五歳の男児、七歳の女児の無事成長を感謝し祝う人生儀礼です。
※「すこやかパック」のお申し込みは佐嘉神社記念館まで(0952-24-4122)

・11月23日
  新 嘗 祭
        午前9時半  佐嘉神社・松原神社
皇室の弥栄と国家・国民の安泰を祈り11月23日に行われるお祭りです。宮中では天皇陛下が天照大御神をはじめ神々に新穀をお供えし、御自身もお召し上がりになります。これにあわせて全国の神社で新穀の収穫を感謝するお祭りが行われます。(神社本庁より
・11月28日
  荒神社例祭 
       午後4時
火の神様、また火を扱う為、台所の神様として崇敬されている荒神社の例祭です。季節柄、火を扱う機会が多くなるので火伏せの神事と、命をつなぐ食べ物を調理する場所を不浄から守るよう祈願いたします。


12月
・12月28日
  煤払い祭
         午前10時  佐嘉神社・松原神社

新年を迎えるにあたり、
神様のお住まいになられる神殿の塵や埃を払い清めるお祭りです。
・12月31日
 開運武威(鰤)祭 特殊神事
  午前10時  佐嘉神社
鍋島直茂公が朝鮮の役より伊万里の港に凱旋された折り、鰤が船に飛び入り鰤(武威)が上がったと喜ばれた故事により行われる特殊神事です。
  年越大祓           午後3時半
水無月(6月)から半年間についた罪穢れを祓い、新年を清しく迎えるための神事です。
  除 夜 祭          午後4時
大晦日、年越しの夜のことを「除夜」といいます。佐嘉神社では年越大祓の後に斎行され、1年間無事に過ごせたことに感謝し、来年もより良い年でありますよう祈念いたします。
毎月の祭典
   
   1日 佐嘉神社・松原神社 月始祭
   10日 松原恵比須社 月並祭
   11日 松 根 社  月並祭
   15日 佐嘉神社・松原神社 月並祭
   25日 松原河童社  月並祭
   28日 佐嘉荒神社  月並祭
  初午日 松原稲荷神社 月並祭

形代人形感謝祭・人形預かりについて
佐嘉神社社務所にて午後1時より午後4時迄の間毎日受付
午後4時半以降に人形感謝の祈願を斎行致します。
初穂料 1かご5000円~(かごの大きさ約 たて35cm よこ50cm たかさ20cm)
※人形付属の道具類(ケース、装飾品、雪洞、屏風等)、人形以外はお預かりできません。
ご不明な点がございましたら
佐嘉神社社務所(0952-24-9195)迄お問い合わせください。

佐嘉神社干支の会のご案内

干支の会 趣意説明と設立の経緯



 佐嘉神社節分祭奉賛会
   趣 旨
 毎年2月3日に執り行われております佐嘉神社恒例の節分祭豆まき行事は、佐賀在住の年男・年女が中心となり年々盛大に催され、佐賀の大きな祭行事として発展しつつある事は喜ばしい限りであります。
 古来より、厳冬の季節から陽春の候に移るときを節分と称して立春を以って年の改まる日と考える風習があり、各地の神社などでも節分追儺式が執り行われております。これは鬼やらいとも称され、悪鬼・疫鬼を駆遂し、新しい年の幸先を言祝ぐ行事であり、年男・年女と称する方がその祭り主をつとめるのが習わしとされております。
 そこで佐賀に於いては各干支の方々が干支の会を結成され、年々の祭りを奉仕されております。全干支の集まりが佐賀干支の会であります。
 そして平成23年より佐嘉神社・松原神社を始め、境内にあるお社を崇敬し、様々な神事に奉賛し又会員相互の交誼と親睦を図ることを目的とした「佐嘉神社干支の会」へと発展改正いたしました。
  結成経緯
 もともと、佐嘉神社では、節分の会員を町内の方々にお願いし、年男、年女の方々を募集して豆まきを行なっていました。ところが、佐賀丑年会の方々が、組織ぐるみで佐嘉神社節分祭に参加をしたい、と言う申し入れを神社が受け、節分祭行事を丑年会に委ね行ったことが契機となり、この節分祭を佐賀の『一大行事』になそうと、当時の佐賀新聞社社長 中尾都昭氏 佐賀玉屋社長 田中丸善次郎氏が中心となり各年次毎に、干支の会を結成するように呼びかけ、佐嘉神社節分祭奉賛会『佐賀干支の会』を結成、佐賀新聞社社長中尾都昭氏が、干支の会の会長となり、その傘下に各干支の会が参加するようになりました。
 そして会員の皆様は市中をパレードし、町々に福豆を撒きつつ神社の豆まきに参加を呼びかけ、神社到着後は10間の特設ステージより豪華景品3000点が当る福豆まきを行ない、市民の皆様方より喝采をあびました。
 今日では、佐賀の『一大名物行事』として定着しています。
干支の会定例会について
目 的
 佐嘉神社・松原神社を始め、境内のお社を崇敬し、様々な神事を奉賛し又会員相互の交誼と親睦を図る合同交流会。
開催日
 3月、6月、9月、12月の年4回(原則第二月曜日)午後6時30分より、佐嘉神社記念館にて開催いたします。
 
会 費
  年会費 2,000円(年間通信費、事務雑費等)
 月例会費 4,000円(参加時のみ当日頂きます)
 「佐嘉神社干支の会」入会者のみにご案内が届きます。
定例会内容
 午後6時30分の太鼓の音にて始まり、午後8時太鼓の音にて閉会します。
 お食事とお飲物を御自由にお召し上がり下さい。
入会案内
佐嘉神社内 佐嘉神社干支の会事務局までご連絡ください。
 TEL 0952-24-9195
 FAX 0952-24-9196

松原神社について


御祭神
 北座三柱
   従五位下 山城守龍造寺隆信命
   従四位下 肥前守龍造寺政家命
   従四位下 駿河守龍造寺高房命

 南座四柱
   平右衛門尉鍋島清久命
   従三位  加賀守鍋島直茂命(佐嘉藩祖日峯様)
   鍋島直茂室彦鶴姫命
   従四位下 信濃守鍋島勝茂命(佐嘉藩第一代藩主)

松原神社中殿
 松原神社は安永元年(1772)6月1日創建、鍋島家の始祖鍋島直茂命を奉祀し『日峯大明神』と号しました。
文化14年(1817)9月祖父鍋島清久命、直茂公室彦鶴姫命を合祀、さらに明治5年に第一代藩主鍋島勝茂命を合祀し、『松原神社』と改められました。
明治6年(1873)この御神殿の北側に新たに神殿を造営して龍造寺家をおまつりするようになり、一般に龍造寺家を松原神社北殿、鍋島家を松原神社中殿と申し上げるようになりました。
松原神社北殿
 龍造寺家御三神、龍造寺隆信命、政家命、高房命は延享2年(1745)正月旧佐賀城内に奉祀されておりましたが、天保5年(1834)佐賀郡北山小川村(現在の佐賀市大和町)に神殿を造営遷座、『敷山社』と号しました。
明治6年(1873)10月9日松原神社に神殿を造営遷座され、一般に松原神社北殿と称していました。
松原神社南殿
明治6年(1873)松原神社に南殿を造営、第10代藩主鍋島直正命を奉祀、大正12年(1912)第11代鍋島直大命が合祀されました。一般にこの御神殿を松原神社南殿と申し上げました。昭和8年、佐嘉神社を造営、鍋島直正命を「別格官幣社佐嘉神社」御祭神として奉祀、昭和23年10月9日鍋島直大命を合祀、松原神社南殿はなくなりました。
昭和36年4月1日、佐嘉神社・松原神社は運営を一本化し、昭和38年、佐嘉神社御鎮座三十年式年大祭記念事業として松原神社並びに佐嘉神社東神苑を合一整備、松原神社御神殿・中殿・北殿を合一、一殿二座に改築されました。(三殿の旧跡には松の樹が植えられ、足で踏んだりすることがないよう囲いが設けられています。)

御祭神について

御祭神
 贈従一位 
 旧佐嘉藩第十代藩主 鍋島直正命

                                   
従一位
 旧佐嘉藩第十一代藩主 鍋島直大命

                                    
<<<直正公の御事蹟

  佐嘉神社
庶民の神
神野の茶屋を庶民に開放
佐賀36万石の10代藩主鍋島直正公は、文化11年(1814)江戸桜田藩邸にお生まれになり、幼名を貞丸、成人して斎正、維新後に直正と改名、閑叟(かんそう)と号しました。
天保元年(1830)2月、若冠17歳で父君斎直公の跡をうけて藩主となりました。
その頃の佐賀藩は長崎警備の大任を受持ち、財政は極度に窮乏していました。このため、直正公は補導役の古賀穀堂の意見をいれ、徹底した倹約令を施行、自らもその範を示し、一汁一菜を励行すると同時に、一切の衣服を綿服に改めました。また、遊郭を閉鎖し、歌舞音曲の観覧を禁止するなど、華美遊惰に流れることを押さえました。しかし、直正公は単なる堅物の殿さまではありませんでした。従来あった10数ヶ所の別荘を整理して、風光に富む神野(こうの)に茶屋をつくり、市中近郷の男女に花見をさせるなど庶民に開放しました。
直正公の詩に
     紫藤三面巧囲屋 (紫藤三面巧みに屋を囲み)
     新竹千竿斜護門 (新竹千竿斜めに門を護る)
     看花好与民偕楽 (花を看るに好し民と偕に楽しむ)
     酌酒便唯我独尊 (酒を酌めば便ち唯我独尊たり)
というのがありますが、この「花を看るに好し民と偕に楽しむ」の一節は、民を愛する気持ちをよくあらわしており、「庶民の神」として敬愛されています。
直正公の孫に当たる直映公は、直正公の意を体して、大正12年、神野の茶屋を佐賀市に寄付し、現在、神野公園として、佐賀市民に親しまれています。
                             
                        現在の神野公園内に建つ「隔林亭」
救農の神
農地改革による農民の救済
直正公は質素倹約をすすめる一方、貧農救済と藩財政の建てなおしのため、天保13年から20ヶ年にわたって加地子(小作農)納入延期令をだし、さらにこれを徹底させるため不在地主の農地を没収して、小作人に再分配するいわゆる均田制度を実施しました。
また、同時に富商の利殖抑制のため、1割2分以上の利息を禁じて、小農の保護につとめました。「救農の神」といわれる由来はこのことによるものです。
学問の神
新しい学問の普及
直正公は教育の刷新、人材の養成に力を注ぎました。
文化5年(1808)英国の軍艦フェ-トン号が突然長崎港に侵入する大事件が起こって以来、外国船がたびたび長崎に来航するめまぐるしい情勢の中にあって、国家的な人材を養成する必要を痛感した公は、藩校である弘道館の費用を175石から1千石に増加し、ここで全藩士の子弟を25歳まで徹底して教育させました。他藩では学問の保守、革新の対立がありましたが、佐賀藩では藩主自ら新しい学問の先頭に立ち、実に幅広い勉強を思い切りさせました。
幕末、諸藩では蘭学をとり入れたところがありましたが、直正公はさらにアメリカ人宣教師フルベッキを招き、長崎に「致遠館」という英学校をつくって英学を学ばせました。
また、医学校と病院「好生館」(のちの佐賀県立病院好生館)を設立し、町医、郷医にいたるまで、蘭法医学を修行させました。特に種痘については、直正公の長子直大公にすすんで行い、全国にさきがけて普及させたことはよく知られています。
このようなことから、「学問、教育は佐賀が第一」ということになり、時の右大臣岩倉具視公は、直正公に養子具綱、実子具定、具経、具儀四人の教育を頼み、京都からわざわざ佐賀の弘道館に学ばせました。
このような直正公の先進的な気風と勉学する環境の中から、明治維新に貢献した有為な人材が輩出されたのです。直正公を「学問の神」として崇める由縁は、ここにあります。 
              種痘の図
           
            弘道館跡地に建つ石碑 
                     
        県立病院「好生館」の庭園にある 種痘のブロンズ
                   
産業開発の神
画期的な産業開発
直正公は弘化2年(1845)、国産方を設け、肥前国内の産業開発や領外貿易などの殖産興業政策を次々に推しすすめました。
石炭開発などは「商人のすることで、藩名を辱しむる」という重臣の意見を退け、英国のグラバー社と提携して、高島(長崎県)に、日本最初の蒸気機関を用いた堅坑を開発、また、英国鉱山技師モーリスを伊万里に招き、炭田調査を行うなど炭鉱近代化の先駆をなした人でした。
伝統産業の陶器についても、従来の経験主義だけに頼らず、科学的に研究できるようドイツの科学者ワグネルを招いて、陶業技術の近代化に着手しました。
こうした施策によって藩財政をたてなおしたばかりでなく、佐賀城北の築地、中折に日本最初の洋式反射炉を構築して、大砲を鋳造、また、蘭、英から軍艦を購入すると同時に、中折に陸軍調練場、化学実験場の精煉方を設立するなど、長崎防衛の義務を果たすため、防衛産業に力を注ぎ、諸藩のうち最も強力な軍事力をつくりあげました。
このような御事跡から「産業開発の神」として崇敬されています。
                                   
科学技術研究所「精錬方」 我が国初の洋式反射炉
交通文化の神
交通・通信の先駆者
日本に汽車が正式に走ったのは、明治5年10月14日「汽笛一声新橋を・・・・・」という鉄道唱歌で知られるように、東京の新橋と横浜の間29キロが最初です。しかし、日本に汽車というものがどんなものであるか具体的に知らせてくれたのは、安政元年(1854)黒船でやってきたペリー提督が汽車の模型を幕府に献上し、横浜で走らせたことにはじまります。
佐賀藩ではこの年、すでに電信機を完成、これを薩摩の島津斎彬公などに贈っていますが、直正公は精煉方で、実際に動く汽車と汽船の模型をつくらせていました。実験に成功したのはペリー提督の汽車模型より遅れることわずか1年、安政2年8月7日のことでした。なお、この日の後日談として、試運転を見学にきていた弘道館の学生、のちの大隈重信は、この日の感激を胸に秘め、日本鉄道建設に力を注いだことは有名な話です。
その後日本最初の蒸気船「凌風丸」が、佐賀郡川副町早津江の造船所でつくられたのは慶応元年(1865)のことでした。このほか明治維新前後の日本海軍の主力が佐賀藩の艦船であったところから、直正公は交通機関の先駆者として「交通の神」と称えられています。
         
   日本初の蒸気船「凌風丸」          電話の先駆け「電信機」
                                             
開拓の神
新政府の重鎮
幕末、大きな勢力をもっていた直正公は、文久3年(1863)、公武合体周旋の命を朝廷から受けると、京都・江戸に上り、慶応3年(1867)長州処分、兵庫開港問題と取り組み、明治2年には薩長土の3藩とともに版籍奉還を行い、新政府の議定となりました。その後、軍防事務局補、制度事務局補を兼任したが、同時に藩の実力をバックに江藤新平、大隈重信、大木喬任、副島種臣らの小扶藩士を新政府に送りこみました。
      大隈重信 (総理大臣、早稲田大学創立者)
      江藤新平 (司法卿参議)
      佐野常民 (大蔵卿、農商務大臣、日本赤十字社創立者)
      大木喬任 (司法相、文相)
      島 義勇 (明治天皇侍従、判官)
      副島種臣 (参議外務大臣)
                                          
                                  
      境内に建立されている「佐賀七賢人の碑」
直正公はこのあと上局議長、蝦夷地開拓督務(のちの開拓使長官)となり、北海道開拓に力を注ぎました。公は不幸にして病になったので、その意志は藩士の島義勇が開拓判官となって受け継ぎ、今日の札幌市街建設などに当ったことが知られています。直正公は北海道旭川市の上川神社と札幌市円山公園にある開拓神社には「開拓の神」として祀られています。島義勇を顕彰する銅像は札幌市役所と北海道神宮に建てられています。
                   
                  北海道神宮境内に鎮座する「開拓神社」
                              
                                  
新政府への経済援助
明治4年(1871)廃藩置県に伴い現金71万両(住友銀行佐賀支店昭和50年現在換算6000億円)並びに軍艦「電流丸」をはじめ12隻を政府に献納されました。時は明治になりはしたものの経済的基礎の固まらない当時の政府は佐賀藩の献納によって安定を見、近代国家へとすべり出したもので、まことに貴重な経済援助でありました。
明治天皇と直正公
                                  
      明治天皇              
明治4年、直正公は危篤の病床から、天皇陛下が未だ種痘を終えていらっしゃらないことを憂い、1日も早く接種なされることをお願いされたのであります。明治天皇は岩倉右大臣よりこのことをお聞きになり、30歳のとき接種されたということです。明治4年1月18日(陽暦3月8日)直正公は東京永田町で薨去されました。宮中においては同月23日、五辻侍従を差遣わされ、弔辞を賜ったのでありますが、その文中に「国家の柱石、臣庶の儀型」とあり、公の御事蹟が何一つとりましても国家的な鴻業であったと知る事が出来ます。昭和8年、佐嘉神社御造営の折り、直正公に「別格官幣社」の称号を賜ったのでありました。
                            
                  賜りし勅語「忠君之碑」
<<<直大公の御事蹟
留学生の花形
直大公は明治4年10月12日、岩倉欧米視察団がアメリカ号で横浜を出港した折、その中の一行、留学生59名の1人として、随員百武兼行、田中英昌、松村文亮などと乗り込みました。
直大公は留学に際し、それまでの結髪を断髪にし
 「とつ国の開けしわざを敷島の大和心にそえて学ばん」
と詠んで、父直正公の遺志を継ぐことを示しました。
久米邦武著『鍋島直正公伝』には、この留学について次のように記しています。
 「蓋し版籍処分後、子孫に相応家禄の給与あるべき事は暁知られたりと雖も、時勢は文明の進むに従うて知能の競争となり、優勝劣敗は機械の如く急激なるべきに、只先祖の遺せる封の一分たる給禄を恃むのみにては、家声を永続せしめんと欲す  とも得べからず。されば世界の知識を開拓し置くは、之に応ずべき最善の計なりとて洋行の議を定めた」とあります。
封建制度が崩壊するさなかにあって、わが子、わが家系、佐賀藩民の将来を案ずる気持ちもさりながら、ここには時代の推移と西洋を知的な展望でとらえようとした直正公の慧眼が、みごとに息づいています。しかも、直大公が留学先で学んだものは、主に文学でした。
ここに鍋島家の開明度、文化認識を知ることができます。なぜなら近代制度も技術も、その根底にあるのは人間であり、広い意味での文明を把握するには、その核心へ向かって目を開かねば、表層をすべることになってしまう。
直大公の留学についていえば、日本全体が明治を迎えて、他藩出身者は軍事や医術を中心とした技術分野の吸収に血まなこになっていました。
しかし、直正公の目は、技術を超えて西洋の最も奥深い知的発見に見据えられていたのです。西洋で最も優れた武器「アームストロング砲」。その大砲を幕末の佐賀藩ではすでに自作できるまでの技術を持っておりました。
直大公はロンドンの医師ブルース家に身を寄せ、英語の勉強のほか、パリ、ウィーンにも旅行、シーボルトなどにも会い、国際的感覚を養い、近代社会における学究として成長していきました。
オックスフォード大学での文学研究は、夏目漱石のロンドン留学が明治30年代であり、ドイツ留学の森鴎外などより10数年前のことであり、それがいかに早いものであったかがわかります。
隋行した百武兼行は、ヨーロッパ絵画のアカデミズムを体得し、日本近代洋画史のなかで独自の足跡を印しました。
ロンドンでの直大公は米国大統領グラントらとともに、ビクトリア女王の舞踏会にも招待を受け、明治11年7月の帰国まで、留学生というより、社交界の花形になりました。また、その間佐賀からの多くの留学生の面倒をみたことはいうまでもありません。
                
       アームストロング砲(砲身内に刻まれた螺旋が見え、技術の高さが伺える)                      
外交畑と文化界活躍
直大公の略歴を記すと、明治2年2月、外国事務局輔加勢より同局権輔、3月、横浜裁判所副総督に就任。つづいて総野鎮撫を命ぜられ、藩兵を出して幕兵を討伐しました。6月、外国官副知事に任じられ、対スペイン条約全権委員となり、8月、左近衛少将、9月参与、同4年7月廃藩、11月イギリス留学、在留前後8年におよぶ。同12年8月、外務省御用掛、同13年、特命全権イタリー公使。ローマに在任中、鋼銅の合金法を研究させ、わが国の工業の発展と日本、イタリーの親善に尽くされた。同15年帰朝、元老院議官兼式部頭、同17年侯爵を授けられ、式部長官就任。23年貴族院議員、同30年、宮中顧問官など歴任されました。
このほか日本音楽会、伊学協会の会長、皇典講究所國學院の院長なども勤めました。
            
                
渋谷の丘に建つ國學院大學(皇典講究所) 創立125年を迎え若木タワーとして新築された                                   
慶応3年(1867)フランスはパリーの万国大博覧会に佐賀藩内産物、有田焼、嬉野茶等多種類を出品され「大日本肥前国」の名を外国に広められました。この時に参加したのは佐賀藩の外、幕府と薩摩藩だけでありました。
なお、特筆されることは、大正2年、佐賀市松原町に直大公が私立佐賀図書館を設立されました。この図書館は昭和4年、佐賀県に移管され、今日の県立図書館の前身となったものです。直大公は同郷子弟のための奨学制度佐賀育英会をつくり、その総裁をつとめ、いつも県民の文化向上のことについて関心をもたれ、当時第一流の文化人であったといわれたお方でした。
大正10年6月18日、病のため76歳で薨去、特旨を以て従一位旭日桐花大綬賞を賜れました